映画を語りたひ。

映画について書き散らすだけです。

組織の権力争いをオブラートにくるんで語る映画:メン・イン・ブラック:インターナショナル①

先週は大変だった。

火曜の午後3時に翌日大阪へ行けと東京から連絡。

急遽出張が決まり、そのまま水・木は大阪で仕事。

トラブル解消の業務はしんどい。

ただまあ、しんどくても出張は好きだ。

新幹線に乗りながらぼんやりと流れゆく景色を楽しむのは

出張サラリーマンの特権である。

それにしても、静岡から大阪行くよりも、東京から大阪行くほうが

時間がかからないというのはどうにかなりませんか、JR。

まあ静岡のはじっこだからしょうがないんだけどさ。

 

週末はX-MENとMIBを観に行った。

結論から言うとX-MENマジでひどかったよ。

死ぬほど評判の悪い(ファンからは悪夢とも評されている、ひどい表現だ)

『ファイナル ディシジョン』以外は一通り観たけど、

その中ではいちばんひどいんではないでしょうか。脚本が破綻寸前。

能力描写が極めて優れているシリーズなだけ非常に残念でした。

 

なので今回はMIB。

シリーズは全部観ているが、今作はスピンオフみたいなもんなので

(今後のシリーズ展開は知らないが)1作目だけ観て世界観をつかめばOKかと。

主演はクリス・ヘムズワーステッサ・トンプソンなのだが、

配役がまんまソー:ラグナロク(日本ではバトル・ロイヤルという題、権利関係の

ためらしい)である。

が、二人ともソーでのイメージは皆無であるため問題なし。

 

今回のMIBの舞台はロンドン。NY本部にてMIBエージェントとなった

テッサ・トンプソン演じるエージェントMがロンドン支部に派遣され、

クリス・ヘムズワース演じつエージェントHと組み、MIBに潜伏している

スパイを見つけ出すべく行動する…というのが大筋だ。

 

さて、上記でもわかるように、NYにて採用されたエージェントを

ロンドンに派遣する意味とはなにか。

MIBの新人採用は1作目でも描かれていたが、それが他の支部では

どうなっているのかというのは今までに描写がない…というか

そもそも支部が登場したのは今回はじめてだし。

さすがに採用はNYのみで…というのは効率が悪すぎるだろうし、

エージェントHのキャラクター造形を考えるとヨーロッパで採用された人物のように

考えられる(どうだろうか)。

ではなぜ、エージェントO(3作目から登場、NY本部のトップ)は

わざわざMをロンドンに派遣したのだろうか。

作中ではロンドン支部にスパイがいるとにらんだためと説明される。

が、なぜスパイがいるとMに知らせずに、それも採用直後の新人を送るのか。

当然、相手の出方を見るためである。

 

 

Mは何も知らないし、そもそもスパイがどうとか以前に

MIBの通常業務、

エイリアンの監視・世間からエイリアンの存在を隠すことについては

ずぶの素人のはずである。

しかし、スパイ側からすればそんなことはわからない。

新人のふりをしているだけかもしれないし、

もしかしたら相手はすでに誰がスパイなのか特定が完了しているかもしれないのだ。

これはなんらかの対処をしなければと普通は考えるし、

事実、その対処が今作ではスパイ特定の手がかりとなっている。

自身は一切に動かず、新人を送ることでスパイ特定に対しての

アクションをしていますよ、

というサインを送ることにより、相手のミスを誘う。

それがエージェントOの作戦であったのだ。

 

今回は相手がスパイだったから物語はきれいに終わる。

しかし、これをある種の組織、例えば企業に置き換えてみるとどうだろうか。

 

時間がないのでまた次回へ続く。

シリーズ異端の名作:ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃-その④-

週末はゴジラIMAXで観たかったので最寄りの109シネマズへ。

結果としては批判的になれず

またもや怪獣バトルをただ楽しむだけという顛末であった。

もうあれは怪獣愛の暴力であって、

同じ文化コードである怪獣愛を持つ人間にとっては

反論することも許されない、怪獣麻薬映画である。

怪獣麻薬映画って字面すげえ。

あとガルパン観てきた。とってもよかったので

いずれなにか書きたいと思うけどうまくまとめきれないのでまたいずれ。

今週末はXメンとMIBの2本・再来週はスパイダーマン

夏休みを前に大作を思う存分堪能しよう。

 

さて、GMKに登場する怪獣たちだ。

1体目はバラゴン。地の神として描かれている本作では

もうかわいそうなくらいのやられ役である。

完全にガキ大将に立ち向かう子犬といったもようであり、

最後はあえなくゴジラの熱戦により爆発四散してしまう。

ゴジラの強さ・恐ろしさを際立たせるための対決シーンであるが、

フランケンシュタインのときとは違い、健気な姿に非常に好感が持てる。

メカゴジラに口を裂かれて30年スクリーンに現れなかった

アンギラスをどことなく彷彿とさせるのだ。

 

そんな彼の戦法は地底に潜り、背後から体当たりをしかけるという

非常にシンプルなものであった。

地底怪獣であることを活かしているが、いかんせんパワー・体格に圧倒的に

差があった。せめて飛び道具でも用意しなさいよ。

 

ちなみにバラゴンの戦闘シーンは箱根である。

有名観光地を破壊しながら闘うのは怪獣映画のお約束でもあるが、

箱根では壊すものがロープーウェイの駅ぐらいしかないのは少し残念であるが、

その分、両怪獣の姿を余すことなく見られるのは

大きなメリットであろう。

 

つぎに横浜、みなとみらいのあたりにてゴジラモスラと闘う。

モスラ。この怪獣であるが攻撃方法はなんなのか、と毎回思ってしまう。

そもそもが蛾なのだから攻撃もクソもないのだが、

ゴジラVSモスラ』や平成モスラ3部作では蛾らしくりんぷん、

そして川北特技監督の得意な光線技でゴジラに攻撃をしかけていた。

しかし本作では一味違うモスラの攻撃を見ることができる。

毒針だ。それもまったく効いている様子がない。

あと脚でカリカリひっかくぐらい。

当然ゴジラ嫌そうなそぶりをみせるくらいで

あんまりダメージになっていないようである。

正直観なおすまでモスラが逃げ回って毒針あびせる以外

どんな攻撃をしていたのか全く思い出せなかったが、

そもそも大した攻撃をしていなかった。

 

もっとも、これは光線技などの強力な技は基本的にゴジラのみに使わせることで

ゴジラの強さを表現しようとしているのだと思われる。

 

本作においてモスラは正直あまり存在感がなく、ギドラの盾となり

満身創痍となってなお、ゴジラの背後から攻撃をしかけようとしたところを、

ゴジラの熱戦を受け退場していった。

 

爆発四散したモスラがエネルギーとなり、ギドラに流れ込み、

倒れていたはずのギドラが目を覚まし、

とうとう千年竜王キングギドラが覚醒するというのが本作の1番のみどころである。

まあ他の作品でさんざん活躍させたモスラを活躍させても…、

というのがあったのかもしれないし、それ以上に金子修介監督は

キングギドラをみせたいという意図が大きかったと思われる。

現に、本作のキングギドラはシリーズでもっともかっこよく、

偉大な怪獣として描かれている。

キングオブモンスターズでのキングギドラも文句なしのできだったが、

本作から大きな影響を受けているのはほぼ間違いない…というか

キングオブモンスターズ自体GMKへのリスペクトが随所に見られる

作品でもある。

 

ということで次回はキングギドラ

そして人間ドラマ&まとめでGMKはおしまい。

ゴジラでも私的ランキング上位に位置する映画とはいえ、

いくらなんでも回数重ねすぎだ。

シリーズ異端の名作:ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃-その③-

 

今週末、MIBとガルパン公開だが、ゴジラもまだ観直してないのに

観たい映画が2本も公開されるのはどうすりゃいいんだ。

しかも来週にはXメンだぞ。シリーズ振り返る時間もありゃしない。

というかXメンまともに観たの1番最初の映画だけだぞ。

 

さて、GMKである。

平成ガメラシリーズの監督を務めた金子修介監督だが、

ゴジラのデザインにおいて、これまでとは大きく異なる点を1点、

大きく打ち出した。

白目である。

 

初めて雑誌かなにかでGMKゴジラを見たときには、

「なんでこのゴジラは白目むいてんだ」とかその程度のことしか

考えていなかったが、映画で見るとこれが結構怖い。

今作のゴジラは太平洋戦争で犠牲になった人々の怨念の集合体として語られる。

白目であることにより生物感が薄れ、

災害・脅威としてのゴジラを描くことに成功している。

そのせいか、GMKではやたらゴジラが強い印象が残っている。

 

また、ゴジラの熱戦によりキノコ雲が形成され、

観客に核を想像させている。

「戦争・核被害のゴジラ」を非常に象徴的に表していると思う。

 

おまけに人間の兵器がまるで通用しない。

それまでのシリーズでは多少攻撃が効いている描写もないではなかったが、

今作では終盤を除き、ゴジラは人では太刀打ちできない存在なのだ。

 

そんなゴジラを迎え撃つのは護国聖獣である3体の怪獣である。

バラゴン・モスラキングギドラの3体だが、

どう考えてもバラゴンは場違いだ。いや割と好きだけどさ。

だいたいゴジラ映画に出たのって『怪獣総進撃』だけじゃないか。

なぜ今回の映画のようにラドンにしなかったのかとも思うが、

空を飛ぶ怪獣が2体になってしまうからという判断なのだろう、たぶん。

 

余談だがネットで、もともと護国聖獣は

バラゴン・アンギラス・バランだったという恐ろしい記述をを見た。

書籍などのソースがないので本当かどうかわからないが、想像するに恐ろしい。

なにが恐ろしいって、その地味な怪獣たちでゴジラに立ち向かったところで

ゴジラとどういう勝負が展開されるのか全く想像がつかないし、

仮に3対1の状況に持ち込めたとしてもすぐゴジラにやられそうである。

アンギラスなんて昭和のゴジラ映画では完全にゴジラの舎弟だし。

「すぐ ていさつ にゆけ!」とかゴジラに言われて

「OK !」とか返してただろ。

ファイナルウォーズで派手な活躍してたけど、その前の登場は

ゴジラ対メカゴジラ』でゴジラに化けたメカゴジラ

口を裂かれるという衝撃的なシーンが最後だっただろ。

なにが衝撃的かって、ノコノコ友好的なムードでゴジラ(中身メカゴジラ)に

近づいたアンギラスがボコボコにされて最後は口を裂かれるというのが

もうかわいそうでかわいそうで…。

 

さらにバランだぞバラン。単体映画こそあるものの、

その後の登場は『怪獣総進撃』のみ。この映画ほんとにいろんな怪獣だしてんだな。

海底軍艦』にしか出てなかったマンダも地味に登場してたし。

しかしマンダは自分の名前を冠した映画がないのか。ちょっとかわいそう。

(ちなみにバラゴンの初登場は『フランケンシュタイン対地底怪獣』である。

 地底怪獣としか表記されていないが一応タイトルには入ってる)

そもそもいろんな東宝怪獣がいるなかでもバランって相当マイナーな部類だし、

怪獣総進撃』でもどんなことしてたかまったく記憶に無いぞ。

あの映画、なぜかゴロザウルスのインパクトが異常に強いんだよね。

凱旋門を破壊しながら地中から現れるわキングギドラにカンガルーキックかますわで。

ゴロザウルスも『キングコングの逆襲』にしか出てないのにね。

今『キングコングの逆襲』ってタイトル出してディープな東宝怪獣ファン以外

分かるやついないよね(Godzilla vs. Kong公開の際にとりあげられるか?)。

 

とまあバラゴン・アンギラス・バランから人気怪獣2体のとのチェンジが

あったわけだが、もともとの選出ならいったいどんな映画になったのだろう。

金子修介監督だから面白くしてくれるとは思うのだが、

その場合でも、このGMK(いやGBABになるのか?)は

ものすごいカルト映画としてゴジラシリーズに君臨していただろう。

無難なモスラキングギドラの選出で良かったと思う。

そもそもゴジラの観客動員数が落ちてた時代だから無難な方向に行くのは

まあ当然である。

 

次回は護国聖獣の3体について。

実写化作品のロールモデルとして:アラジン-その②-

アニメ版の『アラジン』を観て、その流れでジャファーの逆襲

(原題は『The Return of Jafar』、ジャファーの帰還といったところか)を

観てたんだけど、面白い。

子供のとき、どーやってジャファー倒すんだよと、

ディズニーなのに絶望感を強く感じたことを思い出した。

 

前回の勢いのまま、実写版『アラジン』の違和感を

列挙していく。

 

③妙に目立つジャスミン

時代の要請、というやつなのだろう。

アニメ版でもジャスミンは他のディズニープリンセスよりも能動的で

主体性のあるキャラクターだったように感じたが、実写版では

その上をゆく。

 

私は王になる、という決意のもと日々を過ごしているという設定なのだ。

まあこれは別に問題なかろう。

問題は、描写だ。歌の。

後半、ジャスミンの歌のパートがあるのだが、

このシーンの浮きっぷりがすごい。

唐突だしそのシーンの演出だけ妙に象徴的だしで、

違和感バリッバリ。

悪くはないんだよ、むしろジャスミンの決意が明示されて

終盤に入りやすいとは思うんだよ。

だけど妙に浮いてるんだよ。いきなりなんだよ。

 

とどめはラスト。

『アラジン』はアニメ版でも今回の実写版でも、

王様がスルタン(ないしサルタン)と呼ばれている。

これはイスラム世界における君主のことだ。

イスラム世界で女性が公的な立場に就くことは非常にめずらしく、

これはいいのか?と思ってしまった。

もっとも、今調べたら女性スルタンいました。

めちゃくちゃ少ないけどたしかにいます。

単純に無知からくる違和感だったわけだ。

 

ただまあアニメ版では王様が法を変えてジャスミンの結婚を許可する

って描写であってジャスミンが王様になるっていう展開ではなかったのは

はっきり覚えていたので、これは時代なんだな、と思ってしまった。

それに対しては良いとか悪いとかの感想は別にないんだけどね。

 

とまあ、いろいろ文句をつけてきたわけだが

これらは全部確信犯的になされているものだと思う。

今回の『アラジン』では、たったひとつの売り・魅力があればよかったわけで、

(ディズニーでさえ、近年はたったひとつができてないケースは多い)

それ以外の部分は意図的に(もちろん予算・スケジュールの都合もあっただろう。

リソースは無限ではないのだ)手を抜いている。

 

そのたったひとつがウィル・スミスだったのだ。

 

正直、ウィル・スミスの歌うシーンは『ホール・ニュー・ワールド』より

にぎやかかつ世界が広がっていき、楽しい。

また、ジーニーとしての率直な願いを語るシーンも非常に素晴らしい。

万能の魔神である立場から卑小な人間を羨むという設定は

当然だがアニメ版にはなかった。

そもそも自由になってもアニメじゃ

ジーニーのやってることって変わってないしね。

1番重要だったのはジーニーが自由になることによってのみ

成立したアラジンとの友情だったわけで。

 

この映画において、ウィル・スミスのジーニーはアニメ版とは

全く異なるかたちで成立した、

魅力あふれる稀有なキャラクターであることに間違いない。

それを観に行くだけでもこの映画は素晴らしい体験ができると私は思うのだ。

 

ちなみに8月公開のライオン・キングはおそらくひどいもんだと思います。

間違いない。

正直、ダンボとどっちがひどくなるのか非常に楽しみであります。

実写化作品のロールモデルとして:アラジン-その①-

週末、ゴジラを観たかったのだがいまいち時間が合わずにやめてしまった。

とは言え絶対にIMAXで観るつもりではいるのだが…。

いけるかなぁ…。

 

ということで今回は代わりに観た『アラジン』である。実写版の。

公開前からウィル・スミスのジーニーで話題になっていた本作だが、

もうアニメのまんま。改変点を探すのが難しくなるほどまんまであった。

 

もちろん、細かい点を挙げればキリがないのだが、

そもそもディズニーのなかでも際立って出来の良い映画が

『アラジン』なのだから、変える必要もないといった判断なのだろうか。

 

もちろん、ただそのままストーリーをなぞるだけでなく、

見せるべき部分はしっかり見せている。

序盤のアラジンがジャスミンと逃げるシーンなどは躍動感があり、

活劇として見ていてすごく楽しい。

 

あとはやっぱり歌の場面。

必然的に盛り上がるシーンであるが、

ウィル・スミスが大半を歌いあげているが、

どのシーンも気合が入っているのがよくわかる。

一番のお気に入りは『アリ王子のお通り』。

これはすごい。なにがってカット割り。曲の終盤死ぬほどカット割ってたよ。

頭に入る情報量がオーバーフローしてもう最高。

映画の快感ってこういうもんだと思うんだよ。

下手すりゃ映画の中で一番盛り上がったシーンではなかろうか。

 

外せないのがウィル・スミス。

はまり役とかそういうレベルではなく、もうとにかくウィル・スミスが良い。

アニメ版ではどのキャラクターも魅力的だが、

今回の実写版で1番輝いていたのは間違いなくウィル・スミスだ。

キャラクターが主張しすぎていてジーニーというよりウィル・スミスなのだ。

正直スクリーンを右に左に動き回るウィル・スミスが今回の映画で1番楽しかった。

こればっかりは俳優選びでディズニーはパーフェクトな仕事をしたと

いえるだろう。

 

ということで実写化としては完璧に近い出来だと思うのだが、

スタッフロールのあと、私には違和感が残った。

どうにも言語化しにくい違和感。

とりあえず列挙して、違和感の招待を探りたい。

たぶん監督のガイ・リッチーはわざとこういった点、

残したんじゃないかな。

 

①アラジンがしょぼい

いや別にアラジン役のメナ・マスードを叩こうというわけじゃないんだ。

ただ、ウィル・スミスに食われてるのもあるけど、なんとなく

キャラクターの主張が弱いんだ。

序盤は上記のようにアグラバーを駆け回って魅力的なんだけど、

後半ほとんどなんにもしてないし。

 

アニメ版だと大蛇に変身したジャファーと戦ったり

してて、見せ場もあるんだけど実写だから当然そんなことはしない。

象徴的なのは、『アリ王子のお通り』。

アラジンがウィル・スミスの魔法でアリ王子になって、

アグラバーを行進する、って歌のシーンなんだけど

アラジンは困惑した顔してるんだ。

アニメ版だとディズニー特有のドヤ顔(わかるだろ、あの顔だよ!)

してたのに。

 

ついでにジャスミン役のナオミ・スコットもどうなんだろ。

せっかくだし、中東系とかアジア系の女優のほうが

世界観にマッチしてたんじゃないかなぁ。

悪くはない、むしろすごくいいんだけど、

どこかエキゾチズムに欠けるんだよ。

 

②『ホール・ニュー・ワールド』がしょぼい

間違いなくこの映画1番の欠点。

名曲、『ホール・ニュー・ワールド』に合わせて魔法のじゅうたんで

世界を巡る、というシーンなんだけど、ぜんぜん世界を巡ってないから、

ニューワールド感がまるでない!

アニメ版と比べまくるのもあれだけど、アニメ版は中国(と思しき場所)まで

行ってただろ!

わかってるよ!アニメの演出でこそ活きるシーンだってのは!

だけどもうちょっと気合入れろよ!

『アリ王子のお通り』レベルの演出ができないのはおかしいだろ!

『アラジン』といえばこの曲ってなってるからひねくれ者の

私この曲そんなに好きじゃなかったんだけど、今アニメ版見直したら

すごくいいシーンだよ!そりゃアカデミー賞とるよ!

だけどなんだよ!あの腑抜けた演出は!明らかにやる気ないだろ!

そんなにこの曲嫌いだったのかよスタッフは!

他のシーンの演出全部もっとしょぼく、お金かけなくていいんだから

この曲のシーンだけは映画史に残るレベルのものにしないのはダメだろ!

なんでだよ!

 

時間がないので後日!GMKもまだ書ききれてないのに!

シリーズ異端の名作:ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃-その②-

徐々に熱も冷めてきたため、週末は批判的精神を持って

ゴジラを観に行くことができそうだ。

とは言え、暴力的なまでの怪獣愛が全編覆い尽くしているので、

まだなんとも言えないが。

 

さて、GMKである。

 

この映画が公開された年にはすでに平成ガメラシリーズは

終わりを迎えていた。

ガメラ3が配給収入10億円に達しなかったからとのことである。

正直、小学生だった私はガメラの続きが作られない(今もなお!)ことが

非常に悲しく、胸にポッカリと空いた穴もゴジラが塞いでくれず、

おまけにそのゴジラでさえも凋落の様相を呈しつつあった。

しかし、GMKは私を大いに満足させた。

間違いなく、自分が観てきたどのゴジラよりも一番おもしろいと

思うことができたのである。

 

ゴジラ映画というものは、ひとつの宿命を背負っている。

それは、初代ゴジラ、1954年の『ゴジラ』との戦いである。

ゴジラである以上、オリジナルとの比較はついてまわる。

しかし、大半のゴジラ映画は初代ゴジラとの戦いを避けているか、

大惨敗を喫している。

戦いを避け、新たなる境地(あるいはある種の狂気性)にたどり着いた

ゴジラ対ヘドラ』のような作品なは極めて稀であり、

大抵は怪獣映画という枠に自ら収まっている。

大惨敗の代表例としてあげられるのは、

1984年の『ゴジラ』だ。よりにもよって同じタイトルなのである。

戦争と、それに対する犠牲を象徴的に描いた初代と比べると、

なにひとつとして表現しきれていない。

もっとも、高度に複雑化し、もつれにもつれてしまった近代を

ゴジラひとり(1体と書くのは抵抗がある)に背負わせるのは

到底無理な話であったのだと思う。

高層ビルのなか、どことなく所在なさげに闊歩する

ゴジラの姿が妙に印象的だった。

 

初代を過度に神格化していると自分でも思う。

でも、初代ゴジラをおとなになってようやく観たとき、

自分がそれまで観てきたゴジラ映画が色あせて見えてしまったのは

紛れもない事実なのだ。

 

このGMKは数少ない色褪せなかったうちのひとつなのである。

 

まだ作品について何ひとつとして語っていないけど続きます。

こんな、ゴジラに対する自分の想いを総括するつもりなんてなかったのに。

シリーズ異端の名作:ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃-その①-

キング・オブ・モンスターズの余熱がちっとも冷めないので、

週末にIMAX 3Dで再度鑑賞することとする。

3Dは余計だと思うし、109シネマズの3Dメガネはかけていると

耳が痛くなってくるのだが、IMAXは非常に素晴らしい。

ただスクリーンが大きくなるだけ、と言われれば

その通りなのだが、臨場感が段違いのように感じられる。

 

さて、今回はゴジラモスラキングギドラ 大怪獣総攻撃(通称GMK)

について語ろうと思う。

GMKとしか呼ばれないため正式タイトルを忘れられたり、

地底怪獣バラゴンも登場するのにタイトルに含まれていなかったりと、

タイトルだけでもいろいろと語れることは多いのだが、

この作品は歴代ゴジラの中でも異端であると私は思う。

 

1995年に公開された『ゴジラVSデストロイア』にて

一旦シリーズが終わるも、1999年に『ゴジラ2000 ミレニアム』

(読み方は「ごじらにせんみれにあむ」でよいのだろうか)で

シリーズが再開。当時小学生だった私も当然大喜びだった。

 

このゴジラがいない間、かの名作平成ガメラシリーズが公開されていたり、

一方東宝モスラを主役としたモスラシリーズを展開した。

小学生にしてすでに特撮ファンであった私はこれらの映画を

大喜びで(もっともモスラシリーズは子供向けの路線で、どれも素晴らしい名作だがヒネた子供だった私にはちょっぴり物足りなかった)両親に連れられて

観に行っていたが、やはりゴジラの不在は非常に寂しく、

スクリーンに帰ってくるのをずっと待っていた。

 

そんな中、公開された『ゴジラ2000 ミレニアム』は、言ってしまえば

ゴジラ映画の中でも1、2位を争うほどの駄作だった。

今改めて見返すとはっきり断言できる。

どの程度ひどいかは『Running Pictures―伊藤計劃映画時評集1』を

ご参照いただくとして(映画レビュー集なのだが抜群に面白い)、

当時小学生であった私は久々に再開したゴジラに対して

悪感情を抱くわけもなく、さりとて決して面白い映画だったという

感想も持たなかったので、非常に釈然としない気持ちをかかえながら

劇場をあとにしたのを今でもよく覚えている。

 

続く翌年には『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』が公開。

これは子供心にはっきりと面白くないと思ったのを鮮明に覚えている。

今見返せば演出の意図や、溢れんばかりの怪獣愛に気がつくこともできるが、

小学生にはそこまでの洞察力はなく、

ただただ面白くないという印象だけが残った。

中学受験を控えた友達を誘って観に行ったが、

その友達に対して申し訳ないという感情さえ覚えた。

 

さて、そんななか母親から次のゴジラハム太郎と同時上映になるのだと聞いた。

何故かと尋ねればゴジラだけでは観客が入らないのだということだった。

これはゴジラファンであった私の心を少なからず傷つけた。

 

決してハム太郎を貶めるわけではない。

むしろこのGMKと同時上映だった

『劇場版 とっとこハム太郎 ハムハムランド大冒険』に関しては

(ひどいタイトルの割に)今でもあらすじを覚えている程度には面白かった。

ただ、もはやゴジラ映画1本ではやっていけないという事実が

悲しかったのである。

 

もっとも、東宝も1999年に満を持して復活させたゴジラ

以前のタイトルよりも観客が入らないということに大きな危機感を持っていたと思う。

現に、『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』は観客動員数では1984年公開の

ゴジラ』以降で最低を記録しているのだ。

 

そこで東宝も本気に出た。

平成ガメラシリーズで実績を出した監督に

ゴジラを撮らせるという大胆な手に出たのである。

そう、金子修介監督である。

 

GMK自体について何ひとつ語っていませんが、

次回に続きます。